2018年2月、平昌五輪での金メダル獲得の翌日、一夜明けの会見に臨んだ羽生。それまで見せたことのない、素の若者の姿があった。


先週、とある理由で、以前勤めていた出版社の近くまで行く用事ができ、そこで当時の同僚、というか先輩の人と会う機会があった。「もうフィギュアスケートの雑誌は出ないんですか。山口さんは今、どうしてるんですかって問い合わせが今でも来るよ」と聞かされ、純粋に、ありがたいと思った。その先輩は、僕がこのサイト、特にフィギュアスケートに関する話題をツイッターで紹介してくれていて、そのツイートに関する反応が飛び抜けて多かったとも教えてくれた。拙コラム「僕が羽生結弦に教わったこと」は、アイスホッケーの人たちに向けて書いたものだったのだが。

フィギュアスケートの世界から離れて、もうすぐ1年。にもかかわらず自分のことを覚えてくれている人がいるのは本当にうれしかったし、正直、ちょっと信じられない気持ちもある。まあ、これもいいタイミングだと思うので、今回は、当時のフィギュアスケート雑誌の読者の方たちへの感謝を込めてコラムを書いてみたい。で、こうしてパソコンのキーをたたき始めたわけだが、アイスホッケーの原稿を書くときは肩に力が入りっぱなしなのに、なんだろう、この気持ちの軽さは(笑)。「ただいま」感というか、リラックスできるというか、なんだろう、文字を打つスピードが速く感じられる。

あれから1年といえば、昨年の今ごろ、僕は平昌オリンピックの取材で江陵(カンヌン)という街の(おそらく現在は)マンション、当時は「メディアビレッジ」と呼ばれていた報道陣用の宿舎にいた。朝起きて、シャワーを浴びて食堂に行き、プラスチックの弁当箱に食材を詰め込んで部屋に戻って食べ、バスに乗って練習もしくは競技を取材。それからシャトルバスで宿舎に戻り、宿舎横の食堂でチヂミを買い、原稿を書き、写真選びをして、夕方コンビニに行って弁当とカップラーメンを買い、食べ終えたらまた原稿を書き、写真選びをして、気がついたら寝ていて、起きたらシャワーを浴びて朝食会場に向かうというルーティンを2週間続けた。オリンピックの取材は派遣する人員の数にも制限があるので、すべて1人でやるしかなかったし、仕事だから不満はなかったものの、大きな不安が2つあった。「NHK杯で右足を痛めた羽生結弦は演技ができるのか」、そして「僕はフィギュアの取材チケットを手にすることができるのか」ということだった。

まずは、オリンピックの取材チケットについて。オリンピックは事前に申請をして実行委員会の承認を得れば、大会の取材をすることができる。しかし、世界中の記者から取材希望が集中する開会式、閉会式、男子アイスホッケー決勝は、取材パスとは別に「ハイデマンド・チケット」と呼ばれる整理券が必要になる。それがないとスタンド、ミックスゾーン、カンファレンスルーム、はては報道控え室にすら入ることが許されない。フィギュアスケートも、まず女子がハイデマンド・チケットの対象種目となり、近年は男子も含まれるようになった(と聞きました)。平昌大会の男子フィギュアも、もちろんチケットが必要だった。

万が一、ハイデマンド・チケットを手に入れられなかった時のことを考えて、正規のルートで観戦チケット(一般の方が入場するときに使用するチケット)を購入してはいたのだが、担当していた雑誌の看板は、羽生の一挙手一投足を追う企画であり、会見の席で羽生がどのくらいイスに深く腰掛けていたかまで読者の皆さんにお伝えすることだった(ちゃんとノートにメモしていたのだが、ページの関係でそれらが陽の目をみなかったのは残念)。そこを取材できないのであれば、そもそも江陵まで来た意味も、それまで誌面を通じて羽生にエールを送ってきた時間も、何より期待して雑誌の発売を待ってくれているファンの人の気持ちも、すべて水泡に帰すことになる。加えて、雑誌は男子のフリーが終わって間もないタイミングで校了(すべての編集作業を終えて印刷所に手渡すこと)しないといけないため、すべてがぶっつけ本番だった。羽生がケガで演技できなくても、SPのみの出場にとどまっても、メダルを逃す結果になっても、そこから雑誌全体の構成を練り直す時間はない。文字通りの「綱渡り」。僕は江陵で、荒涼とした気持ちで校了と戦っていたのである(加点お願いします)。

ハイデマンド・チケットは割り当てが決まっており、雑誌メディアは1誌ずつではなく「雑誌全体で」という注釈付きでチケットが割り振られていたため、専門誌といえども確実に手に入る保証はなかった。詳細は省くが、実際、男子フィギュアはすべて一般のチケットで取材(正しくは観戦か?)するしかない可能性も、五輪が開幕した時点ではかなり高い確率であった。宿舎の部屋で、Tシャツにパンツ一丁で能天気なコラムを書きながらも、このままいったら本当に「マガジンの取材」ができない、どうすりゃいいんだという不安がいっときも頭から離れなかった。毎朝、プルコギと大盛りご飯を食べ、パイナップルとヨーグルトを腹いっぱい詰め込んでいたのはそのためだ。

ハイデマンド・チケットを手に入れる可能性を広げようと思ったら、江陵から平昌まで1時間バスに揺られ、メインプレスセンターのオフィスに並んでチケットをもらう(無料)しかないのだが、それもまた枚数に制限があり、平昌まで出向いたからといってチケットを手にできる保証はない。とはいえ、平昌まで行かなければフィギュアを取材できる可能性はより低くなる。ええ、通いました、通いましたとも。「編集作業をする時間が減っていくなあ」と思いながら、僕は毎日バスに揺られ、平昌まで往復2時間を費やした。最終的には、雑誌取材のリーダー格である折山淑美さんの配慮で、取材を希望する人全員にチケットが行き渡るようになったが、不安を抱えながらバスに乗って平昌まで通った日々は、今となってはいい思い出になっている。それにしても、折山さんには本当に感謝しかない。江陵では風邪で声が出ず、質問が聞こえないと羽生から突っ込まれていたことは、絶対に誰にも言いませんからね。

チケットに関する不安は解消されたが、もうひとつ、大きな不安があった。「羽生結弦は本番で、自分の滑りができるのか」。こればかりはもう、取材者の立場ではどうすることもできない。2月11日に羽生が仁川国際空港に降り立っても、その思いは拭えなかった。姿を見ることができてよかったという安堵感と、「ちょっとやせたんじゃない?」という、都会で下宿生活をする息子を案じる母親のような気持ち。翌12日には現地で初めての氷上練習があり、リンクサイドの報道エリアをテレビカメラ、スチールカメラ、記者やキャスターがぐるりと取り囲む中、羽生はひたすらコンパルソリーのようにエッジで氷の表面にトレースを描き続けた。リンクを取り巻く妙な緊張感をよそに、羽生はマイペースでエッジングを確認してから、最後の最後にスピードを上げてトリプルアクセル。上機嫌でリンクから引き揚げたが、それでもまだ「本番は大丈夫なのか」という不安は残った。いや、今にして思えば、この時点ではおそらく100のうち70くらいのコンディションだったのではないか。アクセルを跳びはしたけれども、ただひたすらのエッジング練習は、右足の状態が万全でないことを暗に示していた。それでいての練習後の明るい表情は、他人の目にはどう映ったにせよ、演技本番までのシナリオは着実に遂行されているという証明でもあったが。

2月13日。この日は朝の練習の後、羽生の会見が開かれることになっていたが、まずは練習で報道陣をどよめかせた。4回転ジャンプ、4回転からの3連続と、前日夜の姿とは打って変わった姿を披露したのだ。練習会場はメインアリーナで、スタンドではファンも見守っていた。ファンからの拍手に、ごく自然な笑顔で応える羽生。羽生結弦のスケートは、やっぱりファンがいてこそ完成するんだ。そんな思いがすっと浮かんだ。

会見では、世界中の記者、カメラマンがカンファレンスルームに集結した。質疑応答に入る前に、羽生はこう切り出している。「えっと、本当に自分が、えー、ケガをして苦しい時期…もですけれども、ホントに、年が明けてからも、たくさん、いろんな方々から応援のメッセージをいただきました。そしてホントに、感謝の気持ちで今、いっぱいでいます。まだ試合が終わってないので、こう言うのもちょっと変かもしれないですけれども、本当にたくさんのメッセージ、ありがとうございました。そして、そのメッセージの力も、自分のスケート、演技に、つなげたいなというふうに思っています」。以前のコラムで書いたかもしれないが、その言葉を聞いて、僕の仕事はこれで終わったと思った。これで羽生が勝っても、負けても、メダルが何色であっても、仮にメダルが取れなくても、羽生結弦とそのファンは勝利者だと思えたし、大会の結果がどうであれ、雑誌の構成はやはり羽生中心で行こうと決めた。この日の時点で、羽生がメダルを取れるかどうかなんてわかりっこなかったが、この言葉を聞いて自分の中の迷いが消えた。

個人的な話をすれば、この平昌五輪を境に記者・編集者生活に区切りをつけると決めていた。だから前年11月のNHK杯で羽生が右足を痛めてからも、誌面を通じてメッセージを送ってきた。なぜかといえば、羽生結弦を励ましたかったから——というのももちろんあるが、それ以上に、羽生結弦のファンの人たちに伝えたいものがあったからだ。応援している選手の演技に、勝利に、拍手を送る人は数多いるし、それはそれで正しいファンの姿だと思うけれど、羽生結弦のファンはそれ以外の、栄光とは真逆ともいえるシーンにも向き合ってきた。羽生が痛い思いをしているなら、その痛みを分け合って、どんなときでも伴走してきた。選手が苦しい時こそ力になりたいと願う、あなたたちの生き方は正しいんですよと、誌面を通じて伝えたかったのだ。実際、販売部の担当者は「無理することありませんよ。ネタがないんだから発行は中止にしましょう」と言っていたが、僕にはそれが最善とは思えなかった。「確かに、今回のケガでいくつかの雑誌は発行を取りやめるかもしれない。でも、こういう状況だからこそ、雑誌をつくる意味があるんじゃない? 困難に立ち向かう羽生と、それを支えるファンの人に、あなたたちは正しいんだと伝える意味が」。当時は経営者ではなく従業員だったからそんな冒険めいたことが言えたのだと、今では思う。ただ、羽生のケガのあと、オリンピックまでに発行した2冊の雑誌がファンの人の心に届いたのだとしたら、出版させていただいた意味はあったのではないかとも思っている。

僕の頭には、あの11月の大阪中央体育館の光景がずっと残っていた。やっとの思いでチケットを手に入れ、何日も前から旅の準備をして、はるばる飛行機や新幹線に乗って大阪まで来た人たち。羽生の欠場を知らずに会場に来て、リンクに視線を送りながらも、どこか上の空で、持っていきようのない気持ちを抱えながらスタンドに座っている人をたくさん見かけた。2月13日の会見で、何よりも先にファンの人への感謝を口にした羽生を見て、あの大阪の人たちに「よかったね。思いが報われたね」と言いたかった。

いま、アイスホッケーを取り巻く状況を見るにつけ、フィギュアスケート会場の「熱」を思い出す。チケットの争奪戦に始まり、入手できたらできたで勤め先や家族に対して万全のフォローをしてからファンの人は遠征に向かう。その大多数は働く女性、家庭を持っている女性だ。豚肉を多めに買って生姜焼きの汁に浸し、唐揚げと麻婆豆腐を大量に作り、トイレットペーパーとサランラップの残量を確認してから、「お言葉に甘えて行ってきます。おかずは作りすぎると傷むので、足りなければ電話の横に置いたお金で買い足してください。イオンは火曜が特売日です。おみやげにフェイスパウダーを買ってきます。美津代」という置き手紙を残し、早朝、家族を起こさないように家を出て、キャリーバッグを転がして駅まで向かった経験を持つ人は、きっと多いだろう。

そうして支えてくれたファンを思い、自身とファンの気持ちを「演技につなげたい」と羽生は言った。さあ、あとはもう目の前で起こることをすべて受け止めて、それを誌面で伝えるだけだ。会見のあった2月13日の夜、パンツ一丁でコンビニのおでんを食べながら、僕はパソコンに向かった。その3日後と4日後に、言葉で形容しがたい景色を見るとは想像もせずに。

と、ここまで調子に乗って書いてきたが、実はこれからアイスホッケー関係者との打ち合わせに向かわなくてはならなくなった。2月16日に東京ブルーズというチームのデビュー戦があり、その準備のためだ。思えば2月16日は、羽生結弦の平昌伝説がピアノの音色とともに幕を開けた日でもある。その日に自分が運営するチームがスタートするとは、これも何かの縁だろうか。

そんなわけで、ここまでを前編とさせていただき、いったん中断。レーズンサンドとコーヒーで朝食を済ませて出かけます。ああ、江陵のプルコギライスが食べたい!

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