アイスアリーナから日本製紙釧路工場を臨む(上)。3月9、10日は、ともに全国からのファンを出迎えるような穏やかな日差しだった。十條リンクの跡地には、スーパーマーケットを建設中(下)。


3月9日。羽田から飛行機に乗り、釧路空港からの連絡バスで鳥取大通まで行き、泉屋でスパカツを食べ、歩いてアイスアリーナに向かった。同じことをもう何度、繰り返してきたことだろう。関東に住んでいながら、釧路にはこの30年間で100回近く行った…というのは言い過ぎとしても、1人のファンとして、あるいは取材者として、100日以上をこの街で過ごしたのは間違いない。道東の日暮れは早く、3時を過ぎたあたりで製紙工場の煙突が夕日に染まる。冬が厳しく、霧の街として知られる釧路だが、どういうわけか印象に残っているのは鮮やかなオレンジの光線だ。この3月9、10日の2日間、釧路ではアジアリーグ・プレーオフのファイナル2試合が行われた。1戦目は試合前、2戦目は試合後に、いつものように太陽が空を染めた。「おまえ、また来たのか」と言っているような、「じゃあ、またな」と言ってくれているような、やわらかな日差しを見上げるのが好きだった。

ご承知の通り、今季限りでの廃部が決まっている日本製紙クレインズは、2試合とも2ピリまで同点と競り合いながらサハリンに負け、14日の第3戦にも敗れて、2位でシーズンを終えた。十條製紙釧路工場のアイスホッケー部として誕生以来、69年の歴史にピリオドを打ったのだ。今後についてさまざまな報道がされているが、先週末の2日間、いろんな人に聞いて回った限りでは、「本当に何も決まっていないんだ」というのが本音だ。チームを丸ごと引き継いでくれる企業・法人は見つかっていない。複数スポンサーの協賛をもとにした市民クラブの姿も見えてはこない。つまり「何も決まっていない」というより、「どこに向かっても動いていない」というのが、正確な表現のように思われた。

そんな中で救われた気持ちになったのは、選手の表情が明るかったことだ。特に初戦の試合前の練習を見て、本当にびっくりした。みんな笑顔だったのだ。それを見て、本当に廃部が決まったチームのラストの戦いなのだろうかと思った。もちろん、彼らの頭の片隅に不安があるだろうことは言うまでもない。それでも必要以上に深刻にならずに、「なるようになるっしょ」という空気は、十條の伝統なんだと思った。多くの選手が口ひげを生やし、気取ったところがなく、見る人によっては、それはちょっとどうなのと感じる雰囲気。ここは東京ではなく釧路で、クレインズは釧路のチームなんだとあらためて感じた。結果的に2連敗にはなったが、その第2戦を終えてFW中島彰吾はこう言っている。「できることなら、同期や年齢の近い仲間とこれからも一緒にプレーしたいです。この先どうなるのか、不安もあることはありますけど、今は目の前の1試合を戦うしかない。それに、一生懸命やってれば人生なんとかなる。僕は昔から、そう思ってやってきましたから」

「ここは釧路ですよ。東京じゃない」

3月9日、リラックスした表情で第1戦前の練習をしている選手を見て、ふいに昔の選手を思い出した。地元の緑ケ岡高校から現地採用で釧路工場に入り、FWとして活躍したその選手とは、高校時代から長く取材し、家族を取材するために家に招いてもらう間柄だった。あれは西武が廃部になるファイナルだったから、10年前、2009年の3月だ。私はパックツアーを利用して釧路に観戦に来たものの、滞在中にホテルを移動しなくてはならなくなり、チェックインまでの時間を使って丹頂アリーナまでクレインズの練習を見に行った。練習終わりに、リンク上から前出の選手に声をかけられた。「なんでそんな荷物持ってるんですか? 駐車場んとこで待っててください。送っていきますから」と。

助手席に乗せてもらい、いろんな話をした。「同じホテルで4泊取れなかったんですか。だから荷物持って練習見てたんだ(笑)」「西武は受け入れ先、まだ見つかってないんですか? あれほど強いチームなのに」「よかったら今夜、飲みに行きましょう。あのホテルだったら末広、近いでしょ」。えっ、プレーオフの期間中に大丈夫なのと言うと「いいんですよ。気晴らしも必要です」と笑っていた(お互い風邪気味だったので飲みには行かなかったが)。その選手とじっくり話すのは久しぶりで、ついつい夢中になり、釧路川のあたりで青信号になっても車が止まったままだった。こちらが気が付き、信号、青なんだけど…と言うと、「あわてなくて大丈夫です。ここは釧路ですよ。東京じゃないんだから。釧路は釧路のペースで、ゆっくり行けばいいんです」と、その選手は平然としていた。実際、後ろの車からクラクションを鳴らされることもなく、何もなかったように車は発進した。

今年のファイナルの1戦目が終わった3月9日夜、同宿だったスポーツライターの方と、食事を兼ねて街に出てみた。土曜の夜、8時すぎ。観光シーズンではないこともあるが、歩いている人がほとんどいなかった。思えば釧路に初めて来た30年前と比べて、市の中心部のにぎわいは年を経るごとに減っている。釧路、ついでにいえば苫小牧も、ホッケータウンの一番のスポットは郊外にあるイオンだ。仮にクレインズがプロチームとして生まれ変わった時、この街はそれを支えることができるだろうかと思った。20年前、東京の代々木第二体育館では、1000円出せばバスケットボールの試合が見られた。いま、Bリーグは当日券の一番安い席が3000円くらい。1万円以上の席もある。釧路でプロチームが成立するためには、それだけのお金を払うファンを試合のたびに呼び込む必要がある。いや、それでもまだ足りないだろう。現行のアジアリーグでいえば、国内4チームで一番遠征費がかかるといわれるのがクレインズなのだ。

日本のホッケー界に染み付いた「二極化」

日本のアイスホッケーのカルチャーは、企業によって育まれてきた。釧路は十條製紙、苫小牧は王子製紙、日光は古河電工。従業員の福利厚生と地域への還元が目的で、それが地場産業の「あるべき姿」でもあった。自前のリンクを持ち、特に地元の選手を社員として雇用。引退後も、連盟やリーグ、審判としてアイスホッケー界に人材を提供した。現在はほとんどなくなったが、元選手がコーチとして高校や大学に出向になり、自社のネームが入ったスティックが全国の少年選手にばらまかれた。会社の経費でそれが許されていた時代があり、その恩恵により日本のアイスホッケーは発展してきたのだ。

それは「古き良き時代」といえばそうだが、同時に、日本のアイスホッケー界にこびりつく悪習を生んだように思える。与える側と、与えられる側の「二極化」だ。企業側が金、マンパワーのすべてを賄い、その対面に、それを享受する人、それに頼る人がいる。だから一転して与える側の体力がなくなったときに、与えられる一方だった側の人間には成す術がない。頼るものがなく、自らお金を生み出さなければならない状況になったときに途方に暮れる。昔を懐かしみ、現状を嘆き、美しい言葉を並べ、そして何もしない。しないというより、できないといったほうが正しいか。

3月10日、第2戦が始まる前に、クレインズの応援スタンドで、初めて寺山博道さんに会った。クレインズの私設応援団のリーダーであり、署名活動の中心人物。日本製紙の釧路工場で働きながら応援活動を続けている。

「全国の皆さんに支えられています」。そう言いながら、寺山さんはひどく疲れているように見えた。日本製紙の従業員という立場で、社の決定である廃部と向き合う難しさ。「釧路にチームを残そう」という声と、「釧路以外でもいいじゃないか」という声との板挟み。その間にもリミットは刻一刻と迫っている。「先が見えないので、毎日、悩んでいます。眠れないこともあります」。寺山さんは苦笑いを浮かべていたが、とてもじゃないが、つられて笑う気になれなかった。

寺山さんに尋ねた。「チームを残すために実際に動いている人はどれだけいますか」と。みんな「お金が」というけれど、その前に必要なのは「人」だ。いろんな場所に飛び込んでいって、頭を下げ、自分の貯金を使い、収入はなく、毎日のように「やめようかな」と思い、いつの間にか眠っていて、朝が来たら自分で横っ面を引っぱたいて出かけていく。東京ブルーズも、まだたった1試合だが、試合を迎えるまではそんな毎日だった。まして今すぐプロチームを創設するなんて、私には想像もできない。行動したからといって成功する保証はなく、しかし、行動する人間がいなければ絶対にチームはできない。

寺山さんの答えはこうだった。「釧路でそれをやるとすれば、僕しかいません。もし独身だったら、会社をやめてやっていたでしょう。でも、僕には家族がいる。子どもがいる。だからできないんです」。全国から寄せられる期待が十字架となってのしかかり、それが寺山さんの苦悩をより深めているようにも感じられた。

もし東京ブルーズを立ち上げていなければ、私が釧路に移り住んでいたかもしれない。そして、まずはプロチームとしての可能性を探り、それが難しいと判断したときはB級のチームをつくる、あるいは既存のB級と合同での活動を試みたと思う。誰かの人生、誰かの家庭を犠牲にして、無理やり「プロ」をつくったところで、短期間で瓦解するのは目に見えている。それならば、遠回りに見えるかもしれないが、「釧路のチーム」としてストーリーを重ね、支援の輪を広げていく道もあるのではないか。フリューゲルスが横浜FCとなったときは、いったんJFLに下がった。熱心なサポーターを持つ松本山雅だって、設立当初から今の姿ではなかった。釧路には「氷都」としての土壌があるのだから、けっして不可能ではないはずだし、実は釧路全体がアイスホッケーに対して理解を示しているわけではない現状を考えれば、むしろ時間をかけて市民から本当の意味で愛されるスポーツに変わっていくべきではないかと思う。

矛盾するようだが、本心をいえば今からでも受け入れ企業が現れてほしいし、他の街に移ってでもチームが存続できれば、それが一番いいと思う。しかし、廃部発表から3カ月が過ぎても何ら状態が変わっていないことを考えれば、譲渡が「ない」ことを前提に新しい動きを始める時期ではないか。若く、有望な選手は、他のチームへと活動の場を移すかもしれない。それでも、今すぐプロチームを立ち上げるか、なくしてしまうかという「ゼロか100か」の極端な発想ではなく、50か60の状態でも確実にチームを継続させていけば、未来への可能性は残る。「ここは釧路ですよ。東京じゃない。釧路は釧路のペースで行けばいいんです」。それを選ぶ権利が、釧路の人にはあるはずだ。

文・写真/アイススポーツジャパン代表 山口真一

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