高校から関東暮らし。北海道を離れるのはリスキーではなかったかという問いに「ちょうど僕が高校に入るときに近くにアイスアリーナができて、寮の周りには走る場所もたくさんあった。こっちに来て正解でした」


響きがいい。名前の響きが。

カンダロイ。固有名詞というより、なんとなく掛け声っぽい。「カンダローイ!」「Oh! カンダローイ」。どこかの国でそんなあいさつが交わされていそうだ。両親は日本人だが、お父さんはアメリカで、お母さんは旧ユーゴスラビアで暮らした帰国子女。英語が堪能で、国という枠にこだわらない夫婦は、将来、海外に行っても現地の人が呼びやすいようにと、響きのいい言葉を息子の名に選んだ。語呂がいいのには理由があったのだ。

ポジションはDFながら積極的にゴールを狙う菅田は、アイスホッケーの盛んな北海道の東部で生まれた。東京育ちでアメリカ暮らしが長かったお父さんが、自然豊かな地方の生活に憧れ、この地を勤務先に選んだのだ。菅田が暮らしたのは、ホッケータウン釧路市から北に向かった、阿寒郡の鶴居村。名前の通りに丹頂鶴が下り立つ町、いや村で育ち、アイスホッケーの練習の時は釧路市内まで通った。

「お父さんはホッケーの経験はありませんが、アメリカにいたときに、プロや大学の試合をよく見に行っていたそうです」。菅田が初めてスケート靴を履いたのは3歳。ほどなくして、幼い手にはスティックが握られた。ザ・北海道という環境で菅田は力を蓄え、中学2年の春に行われた全日本少年大会ではベスト6に。釧路では石田陸(現東洋大学)と並ぶディフェンダーの両雄だった。

ビッグカントリーの懐に抱かれながら、菅田にはいつしか海外へのあこがれが宿った。両親はいつも、外国人の友達と英語で話している。ネイティブに言葉を操り、とても楽しそうに。「いつも僕だけ会話に入っていけないんです。あんなふうになりたいと思いました」。いつかアイスホッケーで世界に。北海道の片隅で、そんな夢がふくらんでいった。

菅田の海外志向は、埼玉栄高校の1年生のときに決定的になった。埼玉栄高は毎秋、1・2年生がロシア・モスクワに遠征してクリリア・ソビエトなど名門チームと親善試合を行なっている。現地でユーラシア最大のプロリーグ・KHL(コンチネンタル・ホッケー・リーグ)の試合を見て、「絶対に海外でプレーする」と誓ったのだ。偶然だが、その日、筆者も同じディナモ・モスクワの試合を見ていて、レストランで菅田と話す機会があった。「とにかくスケーティングがうまくて圧倒されました。NHLとは、うまさの質が違う。自分のホッケースタイルは北米よりロシアのほうが合っているし、今日、初めて生でKHLを見て、ここでやってみたいと思いました」。目を輝かせて話したあの夜は、菅田のホッケー人生において語り落とせない時間になった。

その思いは、中央大学へと進んだ今も変わっていない。「KHLはやっぱり、すごく好きですね。大学ではロシア語の授業をとっているんです」。4月には、大学に入って初めての大会、関東選手権があった。「高校とは違ううまさを感じました。特に中央はホッケーのスタイルが独特なので、パスの選択肢を間違えてしまうこともありました。私生活でも、見習いたいと思える先輩が中央には多いですね」

高校時代は、チーム事情から滞氷時間(試合の60分間の中で氷の上で実際にプレーする時間)が異常に長かった。「40分とか45分くらいは出ていたと思います。それに比べると今はシフトが短くなったので、もっと頭を使ったプレーをしないと。あとは、しっかりした体づくり。大学リーグで当たり負けていたら、プロでは戦えないので」

どんな試合でも、菅田とプレーの話をしていると、必ずといっていいほど「それは何ピリの何分ですか」と聞き返してくる。クレバーで、どんなことも「だいたい」で済まさない性格なのだ。勉強も、高校までは常にトップクラス。何事においても妥協することなく自分を伸ばしてきた。中央大学では商学部に籍を置き、学んでいるのは「貿易です」。いつか自分を輸出しろ、カンダローイ!

元のページへもどる