5・18東西学生対抗の前の練習では、マッチでシュートを外すシーンも多かった。「今日決めると満足しちゃうので(笑)。試合ではちゃんと入れます」


シュートこそ、僕のすべて。

秀人と書いて「しゅうと」。アイスホッケーをするために生まれてきたような名だ。4人兄弟の末っ子で、3人の兄は全員がスティックを握った。父の和利さんは、日本体育大学アイスホッケー部の監督でもある。「僕がホッケーを始めたのは…いつだろう、ちょっとわからないです(笑)」。記憶の始点のさらに前から、石井のアイスホッケー人生は始まっていた。

神奈川の相模原市生まれ。中学まではクラブチームに属し、高校で初めて「学校」のユニフォームを着た。「兄が2人、水戸啓明高校でホッケーをしていたんです。だからいつも水戸の試合を見に行っていて、自分も水戸に行くものだと思っていたんですが、水戸にいつも勝っているオレンジのユニフォームがカッコよく見えたんです。あこがれましたね」。石井は、その強くてカッコいいオレンジをまとうために家を出た。埼玉栄高校アイスホッケー部の寮に入ったのだ。

北海道のチームとも互角に戦い、トップリーグや日本代表を目指す選手もいる埼玉栄高で、石井は1年目から主力として試合に出続け、高い確率でシュートを決めた。しかし、その裏で味わっていたのは、試合で結果を出し続けることの重圧だ。「当時の寮は6人部屋で、先輩はみんな優しかったんですが、上のセットで試合に出ていたので、点を入れないといけないとか、ミスをしたら外されるかなとか、いつも悩みながら試合をしていました」

1年目の重圧から解放された高校2年目は、大スランプ。迎えた3年目は「やるしかない」と開き直った。「同学年のFWの青木孝史朗(現早稲田大学4年)、茂木慎之介(大東文化大学4年)といつも比べられていました。実際、孝史朗と慎之介は2年目にグッと伸びたんです。3年目の12月に関東大会があって、慎之介が大学入試で出られなくなった。チームが苦しい時に頑張れば信頼を取り戻せると思って、かなり前から準備しましたし、実際、関東大会は全試合で得点に絡むことができたんです。僕には、2年生のときのインターハイ準優勝より印象に残っている大会です」

高校を出ると、父が監督を務める日体大へ。「発展途上のチームのほうが自分には合っているし、力を伸ばせるのかなって」。日体大はいまだ関東大学リーグでトップ4に入ったことがなく、この春の大会も6位で日程を終えた。「日体は部員が40人近くいて、たとえば学年、学年で分かれてしまったり、そういう部分の課題があります。大学生活も残り2年を切ったし、チームをいい方向に変えていきたい」

昨シーズンは1年間、チームを離れてスウェーデンの大学に留学した。英会話を学ぶため、日体大の交換留学制度を利用して現地の学校に通ったのだ。勉強をしながら、セミプロチームの「オーセダ」に所属。18試合で10ゴール14アシストをマークしている。「スウェーデンに行くまでは、ゴール付近にいて、パスをもらってシュートというプレーが多かったんですが、向こうに行ってからは、スピードを生かして自陣から持って上がってシュートすることが増えました」

下宿していたのはベクショーという中規模都市。ガラス工芸品の産地で、日本人も多かった。「日本にいた時はどうしてもアイスホッケー関係者とか、スポーツ関係の人とばかり接してきたんです。スウェーデンでは、ホッケーをやっていない人といろんな話ができた。それが自分には一番、大きかったです」

本来なら4年生になる年齢ながら、留学したため学年は3年。大学を卒業したら大学院に行き、教員になるために勉強を続ける予定だ。「でも、その前にもう一度、ヨーロッパに行って挑戦したいです。次は留学ではなく、勝負をしに行きたい。自分がどこまでできるのか。やれるとこまでやりたいと思っています」

スウェーデンは、実際にホッケーをやっていない人でもホッケーを愛しているし、よく知っている。「そういう人たちの前でプレーするのは、本当に楽しかった」と石井は言う。再びヨーロッパに発つ前に、この国のホッケーをいい方向に変えていこう。一番の武器である、石井秀人らしいシュートで。

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