6月5日に行われた社会人・都市対抗野球の東京都「第三代表」決定戦。内野スタンドは多くの人で埋まり、「自分の意思でこの場所に来た」人たちが出す特有の雰囲気が、球場の空気を心地よいものにしていた。


アイスホッケー、スケートはちょうど「年度替わり」。普段は氷上スポーツを追いかけている皆さんも、この季節は視点を変えて、他の競技を楽しまれている方が多いのではないだろうか。

アメリカ・シアトルに短期留学中の小川翔太選手(中央大学3年・DF)に感化され、今週は意識して野球場で試合を見ることにした。おりしも野球観戦には絶好の時期(と書いているうちに関東は梅雨入り宣言しました)。球場には活気があり、充実した時間を過ごすことができた。とはいえ、やはりいつものクセで、野球をアイスホッケーに置き換え、自分に問いかけながらの観戦になった。

6月5日。この日は夕方まで都内で取材があり、帰宅しようと地下鉄に乗っている途中で思い立ち、神宮球場に向かった。社会人野球最大のタイトル「都市対抗大会」の東京都予選。東京の出場枠4つのうちのラスト2つをめぐって、JR東日本と明治安田生命が「第三代表決定戦」で対戦したのだ。6回に球場に到着してからは得点が動かず、1点リードのJR東が明安をそのまま押し切り、詳しい経過はよくわからなかったものの、両チームの社員、熱心なファンの人が発する能動的な空気が伝わってきて「球場に来てよかった」という気持ちになった。

JR東は、ほんの少しではあるが、ご縁のあるチームだ。以前、雑誌社でアマチュア野球を担当していた時期があり、2001年にJR東が「東京スポニチ大会」で初優勝した時に、当時の中野真一監督をインタビュー取材したことがある。そのときに聞かせていただいた話が、いまだ私の頭の中にしっかり残っているのだ。

中野監督とは同学年で、名前も同じ「真一」。しかも私の親族が「中野」姓なので、「今日の取材は中野真一同士になった可能性があるんです」という会話で始まったインタビューは、若くしてリーダーを任された中野監督のサジェストに富んだ話を聞く、とても有意義なものになった。

中野監督の言葉で特に印象的だったのは以下の2つだ。

「企業がスポーツチームを持っている一番大きな理由はなんだかわかりますか? それは人を育てることなんです。野球部を持っていてよかったと、会社の皆さんに思ってもらえる人間を職場に送り出すこと。それこそが最大の存在理由です」

「一般の社員に比べて、野球部員が職場で過ごす時間は短いですが、選手には、どんなに小さなことでも、何かお手伝いできることはありませんかと、自分から聞いて回りなさいと言っているんです。コピーでも、電球の付け替えでもいい。何事にも一生懸命取り組んで、職場の人にかわいがってもらうことが大切なんです」

あの年はスポニチ大会を制するまでの全試合を取材して、あの試合の何回の攻撃では…という質問もしたはずだが、今なお鮮明に覚えているのは、野球そのものよりも「会社」「職場」に対しての野球部員としてのありかたを説く中野監督の言葉だ。

中野監督は監督を退任された後、主要駅の駅長を歴任するなど、「野球部を持っていてよかったと、会社の皆さんに思ってもらえる人間に」という、ご自身が口にされた通りの会社員生活を送られている。JRはもともとプロの「国鉄スワローズ」を持っていたほど野球熱の高い会社で、都市対抗の本大会はもちろん、予選でも内野スタンドがいっぱいになる。この日も多くの人が一塁側スタンドに駆け付けていたが、野球部が社内でどんな位置づけで、野球部OBや現役選手が職場でいかに愛されているかの証明のように思えた。

企業スポーツは役目を終えた。そんな表現をする人は多い。それでも依然として「実業団スポーツ」が存在しているということは、まぎれもなく、活動の意義と意味があるということだ。神宮球場にいたのは1時間ほどだったが、いろいろなことを考える機会になった。

翌6日はメットライフドーム(西武ドーム)へ。隣の席にはライター・関谷智紀さん。今春、女子の世界選手権(アイスホッケーです)を皮切りに、男子の世界選手権前合宿~世界選手権を精力的に取材した氏と、チューハイ&焼き鳥という「どすこい」メニューでの観戦となった。

野球の話をしつつ、話題はアイスホッケーに。またしばらくすると再び野球の話という感じで、あっという間に時間が過ぎていく。観客は2万6000超。ともに1970年代から球場に通っていた関谷さんと私が口にしたのは、「パ・リーグがこんな時代を迎えるなんて思いもしなかった」ということだった。

この日はセ・パ交流戦。今や超人気チームのカープが対戦相手だったこともあるだろうが、平日の試合がほぼ満席になるなんて、15年ほど前まではそうそう考えられなかった(まったくなかったというわけではない)。客席を埋めるために昔のパ・リーグがよくやっていた招待券のばら撒きは、今はどの球団もやっていない。セ・リーグとパ・リーグ、スタンドで感じる上での人気の差は、ほぼなくなったように思える。掲載した写真は試合終了時のものだが、多くの観客が球場に残っている。都心部から離れた場所にあるため、7回あたりからゾロゾロと駅に向かって通路を歩くファンの姿は、かつてのこの球場の「あるある」だったが、招待券ではなく自分の財布から木戸銭を払い、好き好んでここにいるんだという人がいかに多いか、このあたりからも感じられた。

関谷さんとチューハイを飲み、焼き鳥を頬張り、話題はおのずと「ではアイスホッケーはどうすれば人気を獲得できるか」となった。実は関谷さんとは5月下旬にも所沢で一緒に観戦していて、その日から持ち越されていたお題が「パ・リーグの空気が変わってきたのはいつごろだったっけ」だった。

とりあえず現時点での仮の答えは2つ。「ファイターズが北海道に移って、新庄(さん)が入団したのが大きい」というのと、「ライオンズでいえばチャンテ4(攻撃時、主に得点機に歌われる)が出てきた2011年あたりからスタンドの雰囲気が変わってきた」というものだ。

まずは、ファイターズの本拠地移転。北海道には地元の放送局、新聞社があり、しかしスポーツにおけるソフトが(当時は)足りていなかったので、ファイターズにまつわる報道量が東京時代よりも格段に増えた。もともと巨人ファンが多い土地柄で、しかし日本ハム球団の努力もあって今や完全に北海道のチームとなり、関東においても、東京をホームとしていた時代よりもむしろファイターズファンが増えているように感じる。2004年に「セ・パ再編」が取りざたされ、新たにフランチャイズとなった仙台を含めて各チームがより地元を意識するようになったのも大きいだろう。

所沢も、今や博多や幕張と肩を並べるほどに、ファンの応援が試合を動かすまでになっている。女性ファンが増え、グループ観戦の割合が高まり、そのことでファンが試合の「空気」をつくるようになった。豊富な資金力で常勝軍団となったライオンズも、2000年代初頭は合併話やアマチュア選手との問題があり、ファンが「球団がなくなるのでは」と危機感を募らせた時期があった。博多にしても、ライオンズが去った後の「空白の10年」があり、それゆえ地域が球団を支えるのだという土壌ができた。そう考えると、パ・リーグの歴史は、努力と工夫でピンチをチャンスに変えることができ、地元との連携がそのカギを握っていることを教えてくれている。

複数の地元メディアと多数のファンを抱える地域でのチーム運営と、「現場に行かないと味わえない空気」の醸成。これがスポーツチーム、リーグの成否に大きく関わってくると、個人的には思っている。それを言葉にしたり頭で考えるのはたやすくても、行動し、実現させることがどれほどエネルギーを要するかも、多少はわかっているつもりだ。

社会人とプロ、2日続けて異なる野球を見て、学び、感じることができた。アイスホッケーにとって、野球、サッカー、バスケットと参考にすべき競技は多く、しかし、それらの競技と条件が違いすぎる以上、どこかでアイスホッケー「オリジナル」のやり方が必要になってくる。パ・リーグが大きく変わったように、競技の風景は常に変化し、しかし現在の風景とて途中経過に過ぎない。このオフ、可能な限り他競技の現場を見て、アイスホッケーの将来を考えていきたい。

(アイススポーツジャパン代表 山口真一)

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