アイスホッケーの取材から「震災報道」へ。

3月11日は9年前に起きた東日本大震災の日で、テレビも新聞も多くの時間とスペースを割いて被災地と被災者の「今」を伝えた。そして、2018年秋に起きた北海道胆振(いぶり)東部地震は、特にアイスホッケーやスケート関係者が多く暮らす地域の災害でもあった。

胆振東部地震が起きたのは、2018年9月6日の夜3時7分。震度7を記録した厚真(あつま)町をはじめ、安平(あびら)・むかわを合わせた「被災3町」で40人を超す犠牲者が出た。苫小牧や札幌でも震度5強を記録し、苫小牧の王子製紙、室蘭の新日本製鐵住金(当時)の関連工場で一部操業が停止し、多くのアイスホッケーチームやリンクにも影響が及んだ。

その震災からおよそ1年半。特に被害の大きかった厚真町で、新聞記者として震災と向き合っている人がいる。震災当時は苫小牧民放の運動部記者としてアイスホッケーを担当し、王子イーグルスの試合の記事・写真で紙面を彩っていた石川鉄也さん。今は厚真支局長として、復興へと歩む町を取材している。石川記者自身、苫小牧豊川小4年でホッケーを始め、明倫中、苫小牧南高、苫小牧駒澤大でプレーしていたホッケーマンだ。

 

「厚真支局に赴任したのは2019年5月1日です。支局長といっても、局員は私1人。ここでは何を取材しても震災がついて回ります。あの9月6日は苫小牧もかなり揺れたんですが、震災への受け止め方は、苫小牧と厚真では全然違うんです。被災3町でも特に被害が大きかった厚真には、家族や知人を失ったり、家をなくした人が多いんですよ」

地震が起きた当日、石川記者は苫小牧市内の自宅にいた。家族とともに眠りについていた3時過ぎに震度5強の揺れが襲った。

「揺れ方がドドーンって感じで、それまで経験したことのないものでした。停電していたんですが、すぐに着替えて1時間後には会社にいました。私だけでなく、ほぼすべての記者が出社していましたね。停電でテレビが見られないから、情報がなかなか入ってこない。それでも午前中に厚真に向かいました。当時は運動部の記者でしたが、もう運動部とか何部とかいっている場合じゃない。新聞自体、出るかどうかわからない状態でした」

厚真に着くと、土砂崩れなど被害の大きかった地区では交通規制が敷かれ、石川記者はドローンを飛ばして撮影をした。特に気を遣ったのは、地元住民への取材。そこに最大限の配慮をするのは、1年以上が経過した今も変わっていないという。

「取材は、かなり慎重になります。やっぱり、話したくないという人もいますからね。実は今でも、そういうのはあるんです。人口の5%がPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されていて、震度7の揺れを経験したことで、今も揺れに対してトラウマを持つ人がいる。特に子どもですよね。たとえば震度1くらいの地震でも、びくっとしてしまう。実際にそれだけの揺れを経験した人でないとわからないものがあるんだと、こちらに来て知りました」

厚真を含む「被災3町」の目下の課題は、いま仮設住宅で暮らしている人が「仮設を出た後にどこで暮らすか」だという。仮設住宅の入居者は昨年10月末時点で、3町合わせて340世帯、690人。厚真157世帯345人、安平120世帯235人、むかわ63世帯110人。その人たちが仮設を出ていかなくてはならない時間が、刻一刻と迫っているのだ。

「実は、仮設住宅に住めるのは2年というリミットがあります。そのあたりは、東日本大震災とは違っているんです。自治体で公営住宅を建てるとか、民間の家に移るとか、方法はいくつかありますが、なにぶんお金がかかることなので、そこに入れない人も出てくるのではないかと思います」

東日本大震災のあった3月に、胆振東部地震の記事をあえて掲載するのはそのためだ。仮設住宅を出ていかなければならない期日は、早い人で10月。あと半年ほどしかない。「そういう意味では、震災は過去のことではありません。真っただ中といっていいでしょう」と石川記者は話す。


震災の地で暮らし、町の人と生きる。

被災者の住環境の整備と並び、石川記者が「町の課題」に挙げるのが、住民の心のケア。石川記者の印象では「地震があった直後のほうが、皆さんしゃべってくれましたね」。むしろ時間が経つにつれて、口を閉ざす人が増えたという。

「昨年の9月、震災から1年というタイミングで、被災3町からのメッセージという企画を立てました。被災3町から、外に向けてのメッセージということです。1回、1回の取材で、すごく時間をかけて説明しましたし、断られたケースもありました。そんな中で聞いたのが、ある高校生がメディアにひどい目に遭わされたと。地震で同級生をなくした女の子だったのですが、亡くなった子と一緒に撮った写真を勝手に映されて(写されて)使われたと。ここであなたがしゃべることでその子が浮かばれるんですよという感じで、記者に無理やり話をさせられて、傷を負ったというんです。先生からも、この子は絶対に取材でとり上げないでください、写真も撮らないでと言われました」

昨年の9月6日を前に、厚真には報道の人が次々にやってきた。彼らは、住民や被害状況をカメラに収め、ペンで伝え、9月7日を境に町から消えていった。残ったのは、ここを地盤とする石川記者だけだった。

「9月6日の前には、行く所、行く所、2社以上は取材が来ていました。町のあちこちで、テレビの人がいろんなものを追いかけている。でも、震災1年の取材や報道が終わって、さっといなくなった。北海道内でもそうですから、全国的にはどうしても、胆振東部地震は忘れられたようになってしまいますよね」

 

もうすぐ春が来る。それは同時に、石川記者が厚真支局に赴任し、この町に暮らすようになって1年が経つということでもある。アイスホッケーを追いかけていた苫小牧から厚真に来て、石川記者は今、どんな思いで日々を過ごしているのだろう。

「あらためて思うのは、厚真に来て本当によかったということです。町の皆さんは、表向きは上を向いているんです。もしかしたら心の中ではうつむいているかもしれないんだけど、上を向いて頑張っていますというのをいろんな人にアピールしたいという、そういう思いがある人が多いんですよ。厚真はすごく歴史のある町で、これまで歴史を築いてきた人、震災で亡くなった人たちの思いを受け継いで、次の世代に託していこうという気持ちが強い。確かに、大変なことが起きてしまったんですが、また、みんなが地震が起きる前のような気持ちに戻ってほしいですね。私は、そのための力になれればいいな、と」

3月11日が終わって3月12日になっても、地震が起きてから何年経っても、被災地は被災地だ。被災した地で暮らし、そこで取材をするということは、そこに住む人の心にどんなふうに寄り添っていけばいいのかを考え続けることでもある。

被災者は今、どんな思いでどのように暮らしているのか。3月11日、多くの番組と記事を目にしたが、むしろ問われているのは、震災からある程度の時間が経過した今、被災しなかった人がいかにして被災者の心に寄り添い、それを継続していくか、ではないか。石川記者の言葉を聞きながら、ふとそんなことを思った。

(アイススポーツジャパン 代表 山口真一)

厚真町はハスカップやお米(ななつぼし)などの農業、米愛豚(まいらぶた)で知られ、夏場はサーフィンでにぎわう。苫小牧からはバスの便もあり、日帰りも十分可能だ。写真は、石川記者おすすめの食堂で出てきた米愛豚のとんかつ。柔らかくておいしかった~!

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