第89回全日本選手権Aグループ・2回戦(12月17日・長野ビッグハット)

東洋大学 3(1-1、2-3、0-1)5 HC栃木日光アイスバックス

1998年2月7日。その夜、東洋大学4年生、FWの鈴木貴人はビッグハット前の広場にいた。長野五輪、アイスホッケー競技の開幕戦「日本-ドイツ」。どういうわけか開場時間が遅れ、寒空の下で多くの人がゲートが開くのを待っていたが、鈴木貴人は東洋のチームメイト・内山正浩と山口和良とともに、観客の1人として開門を待っていた。

当時の呼称は「長野の星」。おそらくは大学生で唯一の代表メンバーになると目されていたが、97年の11月、カナダ遠征中に相手のスティックが口に当たり、歯を10本欠損。チームを離脱し、そこから代表に復帰することはなかった。そして、長野五輪開幕日の2月7日。開幕戦を迎えるビッグハットの前で、内山、山口と少し離れた場所に1人でたたずんでいた。あるいはファンの目につかないようにしていたのかもしれない。

その後はコクドに入り、トップリーグで、あるいは国際大会で、このビッグハットでプレーした。所属チーム、そして日本代表でもキャプテン。しかし、コクドはやがて西武鉄道を吸収してSEIBUとなり、SEIBUが廃部になると、今度はアイスバックスに道を求めた。そして引退後の2013年に、東洋大学の監督に就任、2017年には日本代表も率いたが、この間、男子日本代表は五輪に一度も出場していない。つまり、長野に出ていない鈴木貴人は今の今まで「五輪」と無縁のままでいる。

鈴木貴人のアイスホッケー人生。その第2章は、いってみればこの長野で始まっている。「オリンピックに出る。それが自分にとって一番大きな目標でした。結局、その目標はかないませんでしたが、自分が思っていた以上に長いキャリアになった。あのとき長野に出られなかったことが、結果的に選手人生を伸ばしてくれたんだと思います」

 

鈴木監督率いる東洋大学は、この秋の関東大学リーグ戦を制して全日本選手権の出場権を獲得。そのとき、選手にはこう話したのだという。「ビッグハットは、日本のアイスホッケーの歴史や大切なものが詰まっている場所。ここでプレーすることに何かを感じてほしいし、このリンクに立てる喜び、雰囲気を楽しみながらプレーしてほしい」。東洋大学が「鈴木監督」となってから、今回が初めての全日本選手権。「その会場がビッグハットであることは僕自身もうれしい」と話す。

今大会、東洋大学の目標は「ベスト4」。初日(1216日)は香川アイスフェローズを6-2で退け、ベスト4をかけて翌17日、栃木日光アイスバックスと対戦した。説明するまでもなく、鈴木監督が現役の最後にプレーしたチームだ。

東洋大学は開始3分に失点、しかし、すぐさま4分に追いつき、1-1で最初のピリオドを終える。2ピリは序盤に2失点。それでも東洋大学は5人対3人のPPを生かし、26分に2連続ゴール、3-3のスコアのまま10分間、バックスと渡り合った。2ピリ中盤は試合をコントロールしていたようにも見えた。

 

しかし、その時間を無失点で切り抜けたアイスバックスは、36分、FW荒井詠才が技ありのゴール。アイスバックスの「プロ」の貫録だった。この試合、東洋大学は3度、メンバーオーバーのペナルティ。普段の学生同士の試合では考えられないことだが、「プロを相手に体力が消耗して、頭がクリアな状態ではなかったから起きた反則」と鈴木監督。東洋大学のジャイアントキリングを匂わせる時間帯があったように見えて、両者には明らかな「差」があったということだ。

 

1998年の長野五輪から23年。そこで鈴木監督の新しいストーリーが綴られることはなかった。それでも「将来的にはトップリーグと対等に戦えるチームを」という東洋大学のプランが夢物語でないことは、この日の試合で証明された。

ホッケーマン・鈴木貴人にとって、そして日本のアイスホッケーにとって、語り落とせない「1998」。1972年の札幌五輪を念頭に1966年、日本アイスホッケーリーグが始まり、1998年の長野五輪で日本のアイスホッケーの成長期はピークを迎えた。そして翌99年、古河電工の廃部を合図に下降期がスタート。その流れは2021年の今も食い止めることができていない。

長野五輪開幕戦「日本-ドイツ」。日本代表の応援団にサッカーのサポーターが加わり、日本アイスホッケー史上最大音量の応援がビッグハットで繰り広げられた。「あの長野で、日本のアイスホッケーは止まってしまった。このビッグハットで止まってしまったんです」。鈴木監督の中で、長野五輪はまだ終わっていない。いや、始まってすらいない。自分が果たせなかった五輪出場の夢を、教え子たちに。これからも続いていく挑戦も、きっと「1998」のレガシーのはずだ。

(取材・山口真一)

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